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伝道標語
坐禅は直に人をして心地を開明し、本分に安住せしむ。

「坐禅は、すぐにそのまま人に心のあり方を明らかにし、本当のあり方に安住させる。」 瑩山禅師が『坐禅用心記』の中で坐禅について語られる、一番最初のお言葉です。「本分」とは、ここでは「本当のあり方」のことですが、現代日常語では「教師の本分」というように、本来なすべきつとめのことを意味します。しかし、なすべき、という堅い意識が敬遠されたのか、今日あまり使われなくなってきたようです。

「本分」の「分」とは対照的に、現代社会においてますます膨らみ続けている「分」があります。それは、「自分」です。「自分」という場合、普通は、私ひとりを指します。名前があり、思い出や記憶があり、人にも評価される、この「自分」です。「自分」に対して「他人」があり、「他人」よりも「自分」の分が多ければ多いほど、強ければ強いほど、評価が高ければ高いほど、良い。「自分」が取るか、「他人」に取られるか、という二者択一で、「自分」の分を増やそうと躍起になっています。ですが、そればかりが世のあり方ではない、ということには、多くの人が気付いてきています。その意味で「本分」といったら、「自分」の「本当のあり方」とも申せましょうか。

「本当の自分」とは、どのようなものでしょうか。そもそも「自分」とは、私ひとりのことといっても、実は曖昧なところがあります。普段何も気にせず自分の一部だと思っている髪の毛や爪は、切ってしまえばもう自分ではなく、捨ててしまっても構わない。どの時点で、自分でなくなってしまったのでしょうか。あるいは、日頃食べますヨーグルトの中の菌は、生きたままおなかに届くらしいのですが、その菌や大腸菌、その他の体の中にいる生きものは、自分なのでしょうか、自分でないのでしょうか。自分の範囲というものは、都合で勝手に決めてしまっているのではないでしょうか?

坐禅は、背筋をまっすぐに伸ばして自然に呼吸し、すべてをお休みします。その静寂の中では、誰も自分の名前を呼んだりしません。名前も記憶も、すべて必要なく、坐禅に善し悪しの評価もありません。すべてを捨ててしまってよいのです。思慮分別の心によって生み出されたすべての仮のものは姿を消し、この身でも心でもない「本分」があらわれてきます。

「会社の同僚が、陰で私の悪口を言っているみたいで、不安で不安で夜も眠れません」という悩みの相談があります。人の評価や陰口で、「本当のあり方」が変わることは、まったくありません。まずは「心のあり方を明らかにし、本当のあり方に安住させ」てみましょう。「人間としての本分」は、皆が一緒に幸福になれるように、この身と心をどう活かすことができるか、にかかっています。

平成28年7月(徳島県 城満寺住職 田村 航也)

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