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曹洞宗とは

曹洞宗の歴史

曹洞宗の流れは、インドでお生まれになられたお釈迦さまの教え、おさとしを幾世代にも渡って祖師方が、悟りの生活を通して、師匠から弟子へと受け継がれ、インドから中国そして日本に伝えられてきたものです。

曹洞宗の源はお釈迦さまですから、ご本尊さまはお釈迦さまです。

そして、お釈迦さまの教えを日本に伝えられ、永平寺を開かれた道元禅師を「高祖」(こうそ)とあがめ、總持寺を開き、教えを全国に広められた瑩山禅師を「太祖」(たいそ)と仰ぎ、このお二人の祖師を「両祖」と呼び、この三師を「一仏両祖」としてお祀りしお慕い申し上げ、信仰のまことをささげています。

拝む時は「南無釈迦牟尼仏」と、お唱えして礼拝します。

現在では、全国に約15,000の寺院と、1,200万人の檀信徒がおります。

両祖

曹洞宗は大本山を二つもっています。福井県にある永平寺と、横浜市にある總持寺です。ちょうど、私達が父と母の両親を持つように、道元さまの永平寺と、瑩山さまの總持寺を両大本山とお呼びします。

道元さまが正しい仏教の教えを中国より日本に伝えられ、道元さまから四代目の瑩山さまが全国に広められ、曹洞宗の礎を築かれました。

瑩山禅師
道元禅師

大本山

大本山總持寺

石川県にあった諸嶽寺を、1321(元亨元)年、太祖瑩山禅師が諸嶽山總持寺と改められたのが始まりです。明治時代の焼失を機に横浜市に移転しました。交通の便もよく、開かれた禅苑として国際的な禅の根本道場として偉容を誇っています。

大本山永平寺

高祖道元禅師が1244(寛元2年)に、お釈迦さまの教えを正しく伝えられた仏道修行の根本道場であるという高い理想のもとに開山されました。約750年の伝統を誇る永平寺は、今もつねに二百余名の修行僧が日夜修行に励んでいます。

瑩山禅師について

誕生〜出家

瑩山紹瑾禅師は、文永元年(1264)10月8日、陽暦に換算して11月21日に、越前の国、多禰邑(たねむら)の豪族瓜生(うりゅう)邸に誕生されました。熱心な観音信者の母に育てられた禅師は、3歳にして観世音前に「ナムナム・・・」と唱えて拝み、5歳頃には土をこねて仏像をつくったり、経を読み、近隣から観音大士の応現と称されました。

禅師8歳の春、母に連れられ永平寺へ登り、3世徹通義介禅師のもとで沙弥(ひな僧)となり、13歳になると、2世孤雲懐弉禅師に随いて得度式(正式出家)を挙げ、幼名行生を紹瑾に改めて僧列に加えられました。

求法の旅〜總持寺開山

以来、本師徹通禅師に従って宗義を学び、仏経祖録の研鑚を積み、諸国行脚の旅に出られ、臨済・曹洞の宗要をたずね、比叡山では天台教学を修し、永平寺に戻られたのは21歳の秋でした。その後、師の徹通禅師に随って金沢の大乗寺に移り、寺門興隆と民衆布教に専念されました。そして28歳で徳島の城満寺を開き道元禅師のみ教えを広め、4年後大乗寺に帰り禅修行道場の体制を固め、その後数ヶ寺を創立するとともに、たくさんの弟子を導かれ教線の拡張をはかり、石川県能登の門前町に總持寺を開かれたのは禅師58歳の時でありました。

曹洞宗の太祖大師と仰がれる瑩山禅師は、正法を広め宗旨を布演することに全生涯を投じ、偉大なる足跡を残して正中2年(1325)9月29日、62歳で亡くなられたのであります。

總持寺について

大本山總持寺の開創

總持寺の正式名は、「諸嶽山總持寺」といいます。その開創は、700年余もの昔にさかのぼります。

日本海にマサカリのように突き出た能登半島の一角、櫛比庄(現在の石川県輪島市)に諸嶽観音堂という霊験あらたかな観音大士を祀った御堂がありました。そこの住職である定賢権律師が、ある夜に見た夢の物語から、總持寺のあゆみが始まります。

元亨元年(1321)4月18日の晩のこと、律師の夢枕に、僧形の観音様が現れ、

「酒井の永光寺に瑩山という徳の高い僧がおる。すぐ呼んで、この寺を禅師に譲るべし」

と告げて、姿を消されたというのです。

不思議な事に、その5日後の23日の明け方、やはり能登の永光寺室中(方丈の間)でいつも通り、坐禅をしていた瑩山禅師も同じような夢のお告げを聞きました。

諸嶽観音堂は、真言律宗の教院であり、瑩山禅師はかねてから禅院にしたいと念じていました。夢のお告げで、瑩山禅師は入山しようと観音堂の門前に進みます。すると門前に亭があり、禅師はそこの鐃鉢を打ち鳴らして、2つの屋根の楼門を仰ぎみます。山門の楼上には、「大般若経六百巻」が備えられ、手前には放光菩薩が安置されていました。すると、たくさんの僧侶たちと、律師自らが出迎え、歓迎しております。禅師は前に進み、この楼門をくぐります。おもわず、「總持の一門、八字に打開す(門を八の字のように打開する)」と唱えたのです。諸堂を巡り、その壮観さに驚きました。

このようにして瑩山禅師は、定賢権律師の入山の要請を快く受けいれて、諸嶽観音堂に入院します。

前述の『縁起』本文中に「入寺の後、30日を経てまた夢をみる云々」とあり、禅師の入寺は、元亨元年5月15日(夏安居)結制の日であったことが知られます。

禅師と律師は、ともに夢告が符合することに感応道交して、律師は霊夢によって一山を寄進し、禅師は快く拝受し、「感夢によって總持寺と号するはこの意なり」と述べられておられます。

寺号を仏法(真言)が満ち満ち保たれている総府として、「總持寺」と改名し山号は諸嶽観音堂の仏縁にちなんで「諸嶽山」と決定しました。

翌元亨2年(1322)、瑩山禅師59歳の時、後醍醐天皇は、臨済僧、孤峰覚明和尚を使者として、10種の勅問を下されました。これに対する禅師の奉答が深く帝の叡情にかなったので、同年8月28日、總持寺は「曹洞出世の道場に補任」されて、その住持は紫衣の法服着用を公に認められました。更に、この年、9月14日、藤原行房卿に命じられて「總持寺」の三字の書額を揮毫させ、これを賜りました。ここで、總持寺は官寺となり、一宗の大本山たることが認められ、勅定によって曹洞宗の教団であることを、宗の内外に公称するようになりました。

鶴見ヶ丘への御移転

瑩山禅師によって開創された大本山總持寺は、13000余ヶ寺の法系寺院を擁し宗門興隆と正法教化につとめ、能登に於いて570余年の歩みを進めてまいりました。

しかし、明治31年(1898)4月13日夜、本堂の一部より出火、フェーン現象の余波を受け瞬時にして猛火は全山に拡がり、慈雲閣・伝燈院を残し、伽藍の多くを焼失してしまいました。

明治38年5月、本山貫首となられた石川素童禅師は焼失した伽藍の復興のみでなく、本山存立の意義と宗門の現代的使命の自覚にもとづいて、大決断をもって明治40年3月に官許を得、明治44年(1911)に寺基を現在の地に移されたのであります。

国際的な禅苑

現在の總持寺は横浜市の郊外、前に東京湾と房総半島を望み、後に富士の霊峰がそびえる景勝の地、鶴見ヶ丘に位置し、JR鶴見駅より徒歩わずか5分という交通の便の良さに加え、わが国の海の玄関・横浜に位置するところから、国際的な禅の根本道場として偉容を誇っています。このすばらしい地に15万坪の寺域を有し、鉄筋製の大伽藍をはじめの多くの諸堂が建てられ、能登總持寺の開創から数えて591年目の明治44年11月5日、盛大な遷祖式が執り行われました。

山内には、学校法人総持学園として、三松幼稚園、鶴見大学附属中学校・高等学校、鶴見大学、さらに社会福祉法人諸岳会として、總持寺保育園、精舍児童学園等を経営し、社会に貢献しております。

本山に於いても、各種教化事業を推進し、約200名に及ぶ役寮、大衆(修行僧)、寺務職員、パート職員が一丸となって、 寺門の興隆につとめております。

貫首

独住第二十六世
光潤道圭禅師

石附周行 猊下

(いしづきしゅうこう げいか)