今月のことのは

人人本と第二人なく、
箇箇至尊に非ずということ無し
にんにんもと だいににんなく、
ここしそんにあらず ということなし
本山開祖瑩山禅師『洞谷記』
人は本来唯一の存在であり、それぞれがこの上なく尊いのだ

万朶ばんだに咲く桜の花片は、すべて同じように見えます。しかし仔細に見てみると、それぞれすべて違うことがわかってくるでしょう。花の盛りをすぎ、雪のように散りゆく桜の花片がたどる軌跡も、一片一片異なっています。

わたしたちもそうであると、瑩山禅師はおっしゃっています。「人人本と第二人なく、箇箇至尊に非ずということ無し」と。わたしという存在は、この世界において二人とない唯一の存在だというのです。そしてその唯一性において、わたしたちは等しく尊いとおっしゃっています。

この言葉が述べられたのは、お釈迦様がお生まれになった日にあたってなされた説法でのことでした。伝承によるとお釈迦様は、誕生された直後十方に七歩ずつあゆみ、一手は天を指し一手は地を指して「天上天下唯我独尊」と言われたといいます。この世界の中でただ我独り尊い、という意です。

「ただ我独り尊い」という言葉は、一見すると自分のみを高くする表現のように思われますが、瑩山禅師は説法の中で「独尊」という語について少し沈黙した後に、このように述べられています。

「人人他に譲らず」。

人はそれぞれ自己を他に譲りようがない、という意味になります。

大学時代の恩師が、少し微笑みながら「お前さん、わしのかわりにお手洗いに行ってきてくれ」と言っていたことを思い出します。「いや、先生無理ですよ」と答えると、真顔になって「それが自己のありようじゃな」との言葉がかえってきました。

自己はどんな手立てを用いても、他者のそれと交換することはできません。わたしたちは交換不可能な自己自身を、それぞれ独自の軌跡を描いて生きていくほかないということです。そこにこの上ない尊さがあるというのです。

お釈迦様は「縁起」の教えを説かれました。すべての存在はつながりあい、支えあっているということです。そうであるならば、わたしたちは自分以外のすべての存在によって、今ここにあらしめられているということになるでしょう。同時に、自分以外のすべての存在を、わたしが支えていることにもなります。わたしという存在そのものに、生命の限りないつながりがあらわれているいうことがいえるのではないでしょうか。

「わたし」とは、交換不可能な唯一の存在であり、その唯一の存在に生命のかぎりないつながりがあらわれている。瑩山禅師の「至尊」という言葉は、そのことを伝えてくださっているように思います。

桜の木の下を歩く時、雪のように散る桜の一片一片は「至尊」です。そして、落花の中を歩くわたしたちも「至尊」です。幾千の「至尊」の中を、わたしという「至尊」が歩いていくのです。

令和5年2月
安禅寺住職 染谷典秀老師