今月のことのは

自ずから
一粒も費やさざるの
気概を具せ
おのずから
いちりゅうもついやさざるの
きがいをぐせ
本山開祖瑩山禅師『洞谷記』

自坊の境内に茶僊都歌ちゃせんづかがございます。茶僊とは、お茶をたてる時に使う竹製の道具ですが、長く使っているうちに段々と摩耗まもうしてしまい、終には使えなくなってしまいます。それをただ捨ててしまうのではなく、感謝の心をもってねんごろに焼却供養し、その灰を納めるというのが茶僊都歌建立の趣旨です。

「念ずれば花ひらく」の碑でご縁のあった仏教詩人・坂村真民先生の追悼法要を修行した際に、厳粛な献茶式を行い、その後、本堂において小さな茶会を催しました。その時に、お茶席に使う茶僊を供養していただけないかということで、茶僊都歌の話が持ち上がり、建立の運びとなりました。

私自身はお茶の心得が全くありませんが、お聞きするところによれば、茶道とは「おもてなしの心」であると言われます。一個の器が何百万円もするとか、小さな袋に入ったお茶が何万円もするなどという話を聞いたり、一々細かい作法に則って、ゆっくり時間をかけて一服のお茶をおてするなどという話を聞くと、何とも贅沢ぜいたくで面倒な話だということになりますが、その本旨は、自分の持ち物の中で、最高の器をもって、厳選されたお茶を、より丁寧に、誠心誠意お点てして、それを大切なお客様に召し上がっていただくということにあるそうです。

ですから、単に高価な贅沢品を並べるというのではなく、たとえ器一つ、道具一つにしても、それなりのこだわりをもっておそろえし、何回も何回も稽古をして、伝統的作法をしっかりと身につけるということを通じて、お客様に対して真心をこめておもてなしをするという心を表すのです。

「心は形を求め、形は心をすすめる」ということわざがありますが、真心をこめておもてなしをするという心が、形となって表れたものが、一つ一つの作法であり、道具の数々であります。また、その作法によって心が磨かれ、優れた道具が心をより引き立たせるということでもあります。

したがって、その道具を最後まで大切に扱うということ、また感謝の心をもって懇ろに供養するということも、お茶の道にとって大切な心の表れなのです。

道具に限らず、およそ物を大切に扱うということは、そのまま人の命を大切にするということにつながります。物を粗末にする人が、命だけ大切にするとは到底思えません。「消費は美徳」というスローガンのもと、使い捨て文化などと揶揄やゆされていた時代は終わり、東日本大震災以降、節電や節水、あるいは食品ロスを減らそうという取り組みなど、物を大切にする傾向が強まっていることは、命の尊厳という面からも大変喜ばしいことです。

かつてアメリカの大リーグで活躍されていたイチロー選手は、「確かに野球の技術や力の面から言えば、大リーグはさすがに優れていると言えるところもあるが、道具を粗末に扱うという点については、逆にがっかりした。」と述べておられたことがありましたが、いくら技術や力に秀でていたとしても、道具を大切に扱うという心が伴っていなければ、やはり一流とは言えません。

ご開山さまは、「たとえ一粒のお米であっても、決して粗末に浪費してはならない。」とおっしゃっておられます。 人を人とも思わないような凶悪な事件や、イヌやネコなどの動物を無意味に虐待する報道がなされるたびに、命の尊厳が声高に叫ばれますが、まずは自分の身の回りの物を大切に扱うという生き方を、しっかりと身に着けてまいりたいと思います。

令和4年6月
本山単頭 柴田康裕