今月のことのは

仏祖の言句は
 家常の茶飯の如し
ぶっそのごんくは
 かじょうのさはんのごとし
本山開祖瑩山禅師『伝光録』
第四十五祖 芙蓉山道楷禅師章

大本山總持寺は本年開創七百年の記念の年を迎えました。今からちょうど七百年前の元亨元年、御開山瑩山禅師は能登の地に總持寺を開創されました。その後總持寺は、比類ない規模へと発展し、大いなる歩みを進めてまいりました。

しかし明治三十一年(一八九八年)の大火によって、伽藍のほとんどを失い、それが契機となって現在の横浜鶴見の地に移転してまいりました。以来百十年を過ごすこととなりました。

時代が変わり場所が変わっても、一貫して変わらないのは、修行僧が行っている日常の修行です。總持寺の修行は、瑩山禅師が定められた清規という僧堂の規則に基づいております。瑩山禅師は喫茶喫飯と言われるごく当たり前の日常を、当たり前の心(平常心)で行ずることの尊さを説かれておられます。

私がある修行僧からきいた話があります。その修行僧はいつものようにほかの修行僧とともに總持寺の百間廊下を雑巾がけしておりました。本山では、朝昼の二回、この百間廊下を含めた長い回廊を雑巾がけすることになっています。修行僧たちにとっては、何の変哲もない当たり前の日常です。

ある日の事、その様子をじっと見つめている年老いた男の方がいました。その方は、思い立ったように修行僧に近づきこういったのです。「私は、時々こうやって遠くから皆さんの姿を眺めているんです。皆さんが無心に雑巾がけをしている姿を見るとほんとうに心が洗われるんです。」

突然話しかけられてきょとんとしている修行僧に向かって、ご老人はこう続けました。「実は、私は今難しい病気を患っています。もしかしたら治らないかもしれません。そう思うと心はつらく、とても苦しいのです。誰のどんな言葉も慰めにはなりません。ただ唯一、ここにきてみんなの姿を見ると心がとても落ち着くんです。救われているような気持になるんです。」

声をかけられた修行僧は、不思議な気持ちになったといいます、「自分たちの何気ない日常が、苦しんでいる人の心の救いとなるのだろうか…」と。

「修行僧が無心に回廊を雑巾がけする」姿は、本山の日常においてあまりに当たり前の姿であり、誰もその意味を深く考えようなどとは思わないかもしれません。しかし、それは七百年前に瑩山禅師が定められた清規の体現であり、喫茶喫飯の相(すがた)そのものなのです。だからこそ、ご老人の心に届き、苦しむ心を救うことができたのです。

表題のお言葉は、瑩山禅師が撰述された『伝光録』の一節です。意味は私なりに「お釈迦さまの教えを正しく受け継ぐ祖師がたのお言葉は、私たちが家の日常の中でお茶を飲みご飯を食べるのと同じように、ごく当たり前のことである。」と訳します。そしてその普段の当たり前の生活の中にこそ、尊い人生の意味が存在しているのです。

令和3年12月
本山放光堂司 花和浩明