今月のことのは

師檀和合して親しく 水魚の眤づきをなし
 来際一如にして 骨肉の思いを致すべし
しだんわごうしてしたしく すいぎょのちかづきをなし
 らいさいいちにょにして こつにくのおもいをいたすべし
本山開祖瑩山禅師『洞谷記』
当山尽未来際置文

令和三年、大本山總持寺は開創七百年の記念の年を迎えました。本山開祖瑩山禅師は七百年前の元亨げんこう元年(一三二一年)能登の地に總持寺を開かれました。当時は、鎌倉幕府の権威が失墜し、新しい政治が求められていた時代でもありました。

瑩山禅師は観音菩薩の申し子とも言われるほど、幼いころからたいへん慈悲の深いお方でした。ご自身、観音菩薩を深く信仰され「観音様のようにすべての人をお救いしたい」との願いを生涯持ち続けられました。その願いは晩年の「大悲だいひ御誓願ごせいがん」へと昇華していきます。「すべての人びとの苦しみ、悲しみを我がものとして味わい尽くし、未来永劫最後のひとりに至るまでお救い続けたい。それがかなわぬ限り私は、成仏することを願わない。」という御誓願です。

禅師は、總持寺第二祖峨山禅師をはじめ数多くのお弟子を育てられました。そのお弟子たちの活躍があって、總持寺の基盤はゆるぎないものとなり、曹洞宗が日本全国に広がっていくこととなったのです。

一方禅師は、僧侶やお寺と仏縁を結んでいただける檀信徒をとても大切に思い、檀信徒のお力添えがあってこそ寺院の護持発展が叶うことを、ことさらお弟子たちに説かれてこられました。

「瑩山、今生の仏法修行はこの檀越だんのつの信心によって成就じょうじゅす」(『洞谷記とうこくき』)とのお言葉は、瑩山禅師の檀信徒に対する思いを端的に示しています。

瑩山禅師は、總持寺開創後の四年後の正中しょうちゅう二年(一三二五年)旧暦八月十五日永光寺ようこうじにて示寂じじゃくされました。そしてその御霊骨は永光寺にお祀りされています。

御遷化された瑩山禅師の尊い御心はしっかりとこの世に残り、大本山總持寺はじめ禅師ゆかりの土地で、私たち衆生を救い、仏の道へ導き続けておられるに違いありません。

瑩山禅師の御心を受け継ぎ、能登の地で大いに発展し、全国の檀信徒と仏縁を結ぶこととなったのが大本山總持寺です。本山には瑩山禅師の「大悲の御誓願」を果たすべく、未来永劫に渡って、さらに数多くの檀信徒と仏縁を結んでいく大いなる使命があるのです。

明治三十一年(一八九八年)能登の大本山總持寺は、大火に遭いました。伽藍のほぼすべてを焼失するという大惨事でした。總持寺の復興が宗門挙げての大命題となりました。まもなく、本山は横浜鶴見の地に御移転し、ゼロからの復興が始まりました。

ここで大いに力となったのが、新しく仏縁を結ぶこととなった多くの檀信徒の皆様方でした。そして困難と思われた大本山總持寺の復興が無事果たされ、今日の開創七百年の記念の年を迎えることとなりました。

表題のお言葉は、瑩山禅師が晩年記された「当山尽未来際置文とうざんじんみらいさいおきぶみ」(『洞谷記』)の一節です。意味は私なりに「僧(寺)と檀信徒が和合して、水と魚のように親しく近づきあい、ずっと未来に渡って心を一つにし、親子のような思いでともに仏の道を歩んでゆきなさい」と解釈いたします。

昨今、宗教離れということが盛んに言われますが、それは瑩山禅師が説かれた骨肉の思いが薄れてしまっていることにも原因があるのではないでしょうか。

本年九月十二日には、能登の總持寺祖院において、本山賛同のもと「大本山總持寺開創七百年慶讃法要」が厳修されます。本山に集う私たちも、檀信徒の皆様方とともに和合和睦わごうわぼくの思いをもって、心からお祝いしたいと思います。

令和3年8月
本山放光堂司 花和浩明