今月のことのは

必ず我あることを知るべし
本山開祖瑩山禅師『伝光録』
第四十祖 同安丕禅師章

以前、眼科病院の待合室で私は、前から二列目の長椅子に座って、名前を呼ばれるのを待っていました。私のすぐ前の席には、三十前後の男性と女性が座っており、後姿ではありますが、どうやらお二人はそろって待合室のテレビを眺めているようでした。

テレビでは鮭の産卵を映したドキュメンタリー番組が流れていました。

鮭はきれいな川の上流で産まれ海に出ます。そこで大きく育ち、三年から五年過ぎた頃、十月から十一月にかけて、また産卵のため同じ川に帰ってきます。

テレビ画面には、鮭が川を遡る際にできた傷だらけの体を揺らす、産卵と受精のシーンが流れます。そして力を使い果たし、数日後には雌雄そろって死んでいきます。力尽きた親鮭が川の水面に腹を見せて浮いている姿を、カメラがアップでとらえます。場面が切り替わり、映像には半透明の卵の中に見え隠れする稚魚の目。孵化するのは、産卵から何十日も後になります。

テレビを見ていた女性が、隣に座る男性に感慨深げに話しかけます。

「鮭ってすごいね。命を懸けて子どもの為にのぼってきて、子どもの姿見る前に死んじゃうんだね。親の愛情だね。」と。

隣にいた男性がさらっと答えます。

「いやいや、バカだなぁ。魚だよ。ただの本能。子どもの為にとか考える頭はないでしょ。」

以降、お二人の間には静寂が横たわりました。

この聞くともなしに耳に入ってきた短い会話に、私は感じ入るものがありました。

私も意見としては魚の本能のなせるわざであって、先程の女性が言ったように、愛だとか子どものために、この身を犠牲にしても二匹で川を上っていこう、みたいなことは考えているとは思えません。しかし、この見方が鮭の現実かと問われれば、魚に聞くわけにいかない以上、事実は分かりようがありません。

私自身を振り返ってみてもそうですが、何かを見た時、それについてどうしても自分の受け止め方や解釈が生じ、それが現実の世界の姿と一致していると、つい思ってしまうものです。端的に言えば「私の意見が正しい」と根底で思い込んでいるということです。それは多くの場合「あなたは間違っている」という思いとセットです。人それぞれ受け止め方は違うとわかっていても、つい相手を否定する気持ちが湧き上がってしまう。それは気を付けなければなりません。

世界は私の眼を通してしか見ることができません。それはつまり、私が見聞きする世界は、どこまでも私が投影されたもの。いじわるな人は、隣の人もいじわるに見えるとどこかで読んだ記憶があります。

仏道は自己を知る修行。大事なことは、私がどう世間を見ているのかに意識的になることで、自分自身を知ることです。私が今社会の中でどう周囲を見、また聞いているのかを点検してみる。私自身を知ることは、私の我がままを手放していくことへと必ず繋がります。

「必ず我あることを知るべし。」

私たちは、はずせない色眼鏡をかけているようなものかもしれません。しかし、自分が色眼鏡をかけている事に気付けば、はずすまではいかなくとも色つきで見ている事を前提とすることで、補正することができます。別な言い方をすれば、謙虚な心になるということ。相手の意見に対し、「そうだね」と微笑んだり、素直になったりできる人へ。また一面だけの見方にとらわれず、隣の人へ寄り添える人へとなっていくべく、瑩山禅師さまからのお示しであります。

令和2年11月
青森県 清凉寺住職 柿崎宏隆