今月のことのは

一器の水を一器に伝うるが如し。
少しも遺漏なし。
いっきのみずをいっきにつたうるがごとし。
すこしもいろうなし。
本山開祖瑩山禅師『伝光録』
第二祖 阿難陀尊者章

この言葉は瑩山禅師の法孫として仏法の相承として良く知られている言葉ですが、私は水と言う点から考えてみたいと思います。

瑩山禅師は、師匠の義介禅師より道元禅師の教え・人となりを、毎日の義介禅師との修行の月日の中で良く教えられ、理解されておられたと思います。

このお言葉から察するに、瑩山禅師は毎日の修行の中で仏法のあり様は勿論、組織としてのお寺の運営、衣食住の調達の方法など、具体的に伝えられていませんが常に心にとめておられたと考えられます。その中で嗣法に関することも正しく基本に則り行わなければならないと心がけられていたと思われます。

私は得度の時、授業師より洒水の意義・作法をしっかり覚えておくようにと、念を押され懇切に教えられました。

師は『(仏道修行を積んだ者の)頭の頂上にはお釈迦様より代々伝えられた法性水がある、と伝えられる。そして、まず頭の頂上から器へ移す作法をなし器の中の水を法性水へと変える。その器の中の水こそ、お釈迦様から代々伝えられていた清浄な法性水、として扱われる。その法性水をいろいろな儀式に用いる。浄道場・授戒・点眼等でおこなわれる洒水作法の水はそうした法性水なのである。さて、儀式を終えた法性水は、器から師の頂点に戻す作法をなし、(使用後の法性水を粗末にしないために)器の中の水を普通の水に戻しておく。最後は必ず普通の水に戻すことを忘れたり省略してはならないぞ』などと事細かにお伝えいただきました。その師の教えを守り今も洒水の式を遺漏なきよう行じています(※)。

さて、瑩山禅師の祖師方の伝法を、後世に示すべく形づけられたのが五老峰です。

嗣法・相承のあり様を永光寺に如浄禅師の語録・道元禅師の霊骨・懐奘禅師の血経・義介禅師の嗣書・瑩山禅師の嗣書を奉る塚「五老峰」を石川県羽咋市の永光寺境内に造ることにより、宗風を一滴もこぼすことないよう綿密に護持する宣言とされたのでした。

「一器の水を一器に伝うるが如し」のたとえを私は便宜的に洒水作法の例をあげましたが、 私の師が伝えるため弟子の私に面と向かって親切に教えてくださったこと。このことは歴代の祖師様方もまた当然心がけられ、それ故正伝の仏法は今日に伝えられてきたと私は考えます。

相手に対し全霊をかけて丁寧に対することは、弟子のみならず世の人々に相対する際に大切な姿勢であります。相手に大事を伝えることは、日常生活においても同様の姿勢があればこそ。とかく昨今は通信伝達手段の発達ゆえか、直接相手と意思疎通することなくやりとりするきらいがあり、一方誤解・曲解も生じてしまいがちです。

御釈迦様から伝わる仏法の相承をかくも大切になさってこられた祖師様方の姿勢は、今日に生きる私たちだからこそ学ぶ姿勢でもあるのです。

※洒水作法は様々に伝わります。ここで紹介の作法はその一例です。

令和元年8月
秋田県 高泉寺住職 泉田泰雄老師