今月のことのは

佛来るも驚かず 魔来るも厭わず
  山に逢っては山に棲み
 水に逢っては水に棲む
ほとけくるもおどろかず まきたるもいとわず
  やまにあってはやまにすみ
 みずにあってはみずにすむ
本山開祖瑩山禅師『信心銘拈提』

私が住んでおります秋田県横手市は、全国でも有数の豪雪地帯であり、一晩で雪が一メートル近く積もることもございます。最近では、温暖化の影響もあってか、雪に多くの水分が含まれており、かなり重くなってきたように感じられます。ですから、特に一人暮らしの高齢者にとっては、家の前の雪掻きや屋根の雪下ろしなど、除排雪にかかる作業が大きな負担となってきております。

そんな中、今から五年前に開かれた横手市主催の「雪をうたう」市民俳句大会の中で、市内在住の明沢栄子さんが詠まれた「遺されて雪掻く力養へり」という句が特選になりました。

これまで雪掻きをされていた方を亡くして、今度は自分自身で雪掻きをする力を養いながら、この厳しい雪国で生きていこうという、そんなひたむきな気持ちを、私はこの句から感じ取りました。

その数日後、近隣のお寺様で法話をさせていただいた折、私はこの句の作者である明沢さんとお会いしました。明沢さんは、そのお寺様の檀信徒さんでありました。齢はすでに八十才を越えておられて、一人暮らしをされているということでした。

そこで、私は先の句が特選になったことへのお祝いを申し上げた後、

「お連れ合いを亡くされたのですか。」

とお聞きしました。すると、

「そうです。昨年の八月に亡くなりました。」

とおっしゃいました。

案の定、それまでは、そのお連れ合いが雪掻きをされていたそうですが、これからは自分で雪掻きをしなければならなくなったということでした。

「やっぱり、想像していた通りだった。」

私はそう思いました。

ところが、よくお話をお伺いしますと、明沢さんは、お連れ合いを亡くされる十年程前に、一人息子さんを交通事故で亡くしておられたのでした。

大切な一人息子さんを不慮の事故で失い、頼りにしていたお連れ合いにも先立たれ、まさしく「遺されて」だったのです。それほどの深い悲しみと絶望と孤独感が、この一句には込められていたのです。それは私の想像をはるかに超えるものでした。

ですから、明沢さんが養おうとされていたのは、「雪掻く力」のみならず、「生きる力」そのものだったのです。それほどまでに真剣な、そして静かで力強い決意の表れが、「雪掻く力養へり」という一句に詠われていたのでした。

私たちは生きている以上、少なからず様々な苦しみや悲しみに出逢わなければなりません。それがお釈迦様のお示しになられた「人生は苦しみである」という真実です。

しかし、そうした苦しみや悲しみを乗り越えて、力強く前向きに生きていくという智慧も、同時に示されておられます。

明沢さんは、現在でも横手市内で元気に生活されながら、毎年菩提寺様で行われるご法話の席には、必ず参列しておられます。そのことが、明沢さんの「生きる力」になっているのです。

冒頭に掲げました瑩山禅師様のお言葉は、現状を無条件に引き受けて、それに甘んじて生きるというような、そんな消極的・受身的な生き方を示されたものではありません。

たとえどんな境遇に出逢いましょうとも、決して己を見失うことなく、仏様のみ教えに照らされながら、どこまでも主体的・自発的・創造的に生きていくことの大切さをお示しになられたものです。

「自分が歩んでいるところが、そのまま自分の修行の場である。」

という禅の言葉がございます。

毎日の生活が、自らの修行の場と心得て、誠実に仏様のみ教えを学び実践していくという生き方を、ともに歩んで参りましょう。

平成30年2月
秋田県 洞雲寺住職 柴田康裕