今月のことのは

光陰惜しむべし
  時は人を待たず
 一朝眼光落地を待つこと莫れ
こういんおしむべし
  ときはひとをまたず
 いっちょうがんこうらくちをまつことなかれ
本山開祖瑩山禅師『伝光録』
第十六祖 羅睺羅多尊者章

私の叔母が嫁いだ先のおばあちゃんは、満一〇二歳の天寿を全うされた方でした。大変な長寿であっただけでなく、亡くなる直前まで好奇心旺盛な方で、特に仏教については専門の書籍を読んでおられたほどでした。そのおばあちゃんが一〇〇歳になったばかりのころ、私は親しくひざを突き合わせて話し合う機会がありました。おばあちゃんのお話は、そのほとんどが苦労話でした。たくさんの職人さんのいる家に嫁いだこと、皆に気を配りながら寝る間も惜しんで子育てをしたこと、そして晩年、子供たちが独立してやっと自分の時間が持てたことなどを、独りとうとうと語ってくれました。そして最後に一〇〇年の半生を振り返って、穏やかにこう言われたのです。「一〇〇年本当にいろんなことがあったな。ほとんど苦労ばっかりだったけど、今思うと懐かしい。おかげさまで六〇歳過ぎてからは好きなことをさせていただいた。そしてとうとう一〇〇歳になってしまったけど、振り返って見るとあっという間だったよ。ところで、一〇〇歳になって初めて気づいたことがあるんだよ。それはね、〝人間は儚いな〟ということだよ。つくづくそう思うよ。」その時のおばあちゃんの表情は、決してあきらめの表情ではなく、人生をいとおしむような、とても安らかな表情でした。

私は、この言葉を聞いてある衝撃を、受けました。そしてすぐさま仏教の「諸行無常」(一切は移ろいゆく)という言葉を思い出しました。私は仏教を学ぶひとりとして、幾たびもこの言葉に触れてきました。これまで頭では理解したつもりでいても、正直、心から腑に落ちたことはありません。むしろこの言葉とは裏腹に、漠然とこの人生が永遠に続くものと錯覚して、漫然と一日を過ごしてしまっているのが実情です。

二月十五日はお釈迦様のご命日にあたる涅槃会です。大本山總持寺では大祖堂に、お釈迦様の入滅のお姿を描いた巨大な涅槃図が掲げられます。そして偉大なお釈迦様の恩徳をしのび、お釈迦様のご遺言を説いたとされる遺教経を読経し、ご命日の法要が営まれます。

お釈迦様は、二五〇〇年ほど前にお弟子たちに、自灯明・法灯明の教えを説かれ、静かに入滅なされたと伝えられています。お釈迦様の入滅は、大いなる安楽に入られたという意味で、大般涅槃とも言われます。この時、多くのお弟子たちは、お釈迦様が身をもって示された涅槃の意味が分からず、大いに嘆き悲しみました。永遠に存在されると思っていた、お釈迦様が入滅されてしまったからです。しかし、この入滅はお釈迦様がお弟子たちに、「諸行無常」を悟らすために、あえてなされたことであると伝えられています。『大般涅槃経』にはお弟子たちへの最後のお言葉として「すべてのものは滅びるものである、怠らずに務め精進せよ」と説かれています。お釈迦様の入滅後、師の真意を悟ったお弟子たちは、怠ることなく日々の修行に努め、お釈迦様の御教えである仏教を後世に伝えていくことになりました。

表題のお言葉は、瑩山禅師が伝光録の中で説かれているお言葉です。瑩山禅師が「南無釋迦牟尼佛」とお書きになられた有名な条幅があります。この書を目の当たりにすると、禅師がいかにお釈迦様を心から信仰なされていたかがひしひしと伝わってきます。禅師の表題のお言葉は、心から信仰するお釈迦様の、お弟子たちに対する思いにぴたりと重なります。お言葉の意味は「時を大事にしなさい。時は人を待たず、あっという間に過ぎ去ってしまうものだ。今を無駄に過ごして、とつぜん訪れる死を待つような生き方をしてはいけない」ということです。

「諸行無常」という言葉は、誰もが遠ざけたい言葉です。でもこの言葉から、人は我が命の尊さを知ることができるのです。

平成29年2月
本山総持寺参禅室長 花和浩明