今月のことのは

若し坐久しき時は、必ずしも、
安心せずと雖も、心自ら散乱せず
もしざひさしきときは、かならずしも、
あんじんせずといえども、しんおのずからさんらんせず
本山開祖 瑩山紹瑾禅師 『坐禅用心記』

 数年前、私達は新しいウイルスによって、命を護る新しい生活が急激に始まり、ただただ不安と理不尽さに振り回されました。 

 今では、感染対策は第五類に至り、また新しい生活の方法やルールを模索しております。マスクをしたりしなかったり、周りの様子を見ながら自分なりに判断しています。それが正しいのか、間違えているのかはわからないのですが・・・

 こうした生活の中で自分なりに、心のはたらきを見つめて気が付いたことがあります。先ずは無事でありたいという、無意識ながら強い思いです。だれもが我先にと不足したマスクや消毒用品などの、新しい生活必需品を買い求めました。

 次に、感染対策をしっかりしているという社会性を整えたいという思いです。これは、他人によく思われたいという面も含まれています。

 私達はこうして自己の思いに寄せて生活しています。ある時はその思いに振り回され、思ったように行かないと悩んだりします。理想と、現実の不一致は誰もが必ず経験することです。しかもその原因は自分自身の思いに他なりません。

 私は、ご本山から離れても日常に坐禅の時間を持つように心がけてきました。しかし、修行道場に身を置くときにように、整った坐禅堂できめられた時間に多くの修行僧とともに参禅修行してきたようには行きません。月に2回法友の宗侶と修行してきた摂心(坐禅の時間を共にする会)も感染対策のため集まることができなくなり、「不要不急の外出は避ける」という「不要」とは何か、坐禅会は不要と考えるのかと、自問自答したものです。

 それ以来、一人で坐る坐禅の時間が3年間続きました。

 今年久しぶりに研修会に参加いたし、大勢の法友たちと暁天坐禅(朝のお勤め前に修行する坐禅)に参禅することがかないました。ところが、久しく一人で坐り、時間も自分勝手にきめていた坐禅から、きめられた時間の中で修行し、他人に迷惑をかけないように調息(呼吸を調えること)すら煩くないように意識して、あまり心地よいというものではありません。むしろ落ち着かない時間を長く過したという感じでした。

 このとき私が思い出しましたのが、大本山總持寺ご開山瑩山紹瑾禅師様ご著書『坐禅用心記(ざぜんようじんき)』の一節です。

「 ()坐久(ひさし)しき時は、必ずしも、安心(あんじん)せずと

         (いえど)も、心自(しんおのずか)散乱(さんらん)せず。」  

 これは、瑩山紹瑾禅師様の御教えで、最も慈悲深いお言葉であると私は頂いております。

 「久しぶりの坐禅修行では、落ち着いて穏やかな心持ちで坐れない時もあります。しかし、そのような場合でも慌てることはありません、焦ることはないのですよ」と私は受け止めておりまます。

瑩山紹瑾禅師様は、皆様ご存知のように、徳島県に城満寺を開山なされるなど、諸国を旅なされ、道場から離れる生活もご経験されておられます。

 そうしたご経験からご著書の『坐禅用心記』に

 「(も)坐久(ひさし)しき時は」という一節を遺してくださったのであると、私は大いになぐさめられるのです。

瑩山紹瑾禅師様も、きっと久しぶりに道場にお帰りになられ坐禅のお時間で、心のすわりが思わしくないことも経験なされ、参禅修行の雲衲(坐禅をする修行僧)に残してくださった尊き御教なのです。

 この御教えから、思うようにいかない日常でも、自分の思いに縛られることなく、慌てず、穏やかに過ごすことの大事を深く感じるのです。

                                              合掌

 

 

令和5年9月
埼玉県 正覚寺住職 中野尚之老師