今月のことのは

知るべし 雲谷幽深の処 更に霊松の歳寒を歴る有り
しるべし うんこくゆうしんのところ さらにれいしょうのさいかんをへるあり
『伝光録』「第一章 第一祖摩訶迦葉尊者」頌古

( 知るべきである、雲霧たちこめる深い谷底に年古りた松。厳冬にこそ翠色濃きを)

 雲や霧がたちこめる深い谷底を歩くのは、たいへんな困難を伴います。進むべき方向も見えず、これまで歩いてきた道も全く見えないのですから、不安や恐怖の感情はいや増すばかりでしょう。しかしそこには必ず、厳しい冬の寒さの中でこそ翠濃い色の葉の松の古木が存在しているのだと、瑩山禅師は詩を詠んでいます。  

 どの方向を見ても何も見えない状況で、雲霧の中からあらわれる松の葉の翠を目にしたとしたら、どんなにか安堵の気持ちをおぼえることでしょう。人生においてもそのような状況に直面することがあると思います。人間関係に悩んだり、仕事の上で迷うようなことがあったり、重い病気や、生活を根こそぎ奪われてしまうような状況に遭遇した時、自分がいったい今どこにいるのか、どこに向かって生きていけばいいのか、途方に暮れてしまうのではないでしょうか。

 そんな雲霧の谷底を歩いているような、厳しい冬の寒さにさらされているような時にも、いのちを静かに燃えたたせている松の翠に出会えるのだと、瑩山禅師は伝えているように思います。

 翠濃き松は、何をあらわしているのでしょうか。

 この詩は『伝光録』という書物の中で、瑩山禅師が摩訶迦葉尊者について解説している中で詠まれているものです。尊者はお釈迦様の十大弟子の一人で「頭陀行第一」と称されている方です。頭陀行とは、質実な生活を通して仏道修行に専心する行のことですが、この行を尊者は誰よりも厳格に、着実に行ったことで第一と称されるようになりました。

 この行は生活をととのえるものといっていいでしょう。朝目覚め、布団から起き上がり、お手洗いに行き、歯をみがき、食事をいただき、掃除をし、お風呂に入り、眠りに就くという、日常の営みを丁寧に行うとき、おのずと身心がととのい、いのちの力が湧き上がってくる。翠濃き松は「いのちの力」の象徴といえるのだろうと思います。

 困難な状況に、朝起きることもつらく、食事ものどを通らないこともあるかと思います。それでも少しずつ、日常の営みを丁寧に行うことをめざしていく。劇的に状況が変化していくわけではないかもしれません。しかし、必ず静かに変化が始まっていきます。日常の営みはささやかなものですが、困難な時には大事業になるのです。勇気をもって行ってください。

 雲霧の谷底を行くとき、何も見えない不安や恐怖の感情に飲みこまれてしまう前に、足もとの一歩一歩を確かめながら、まず見える範囲に意識を向けて歩みを進めていくということです。そのように歩いていけば、必ず松の翠に出会うことができることを、瑩山禅師は私たちに示しているのではないでしょうか。

令和6年3月
茨城県 安禅寺住職 染谷典秀老師