今月のことのは

人人悉く道器なり 日日是れ好日なり 
にんにんことごとくどうきなり にちにちこれこうにちなり
本山開祖瑩山紹瑾禅師 『伝光録』 脇尊者章

 「日日是好日」は、『碧巌録(へきがんろく)』の第六則に見られる言葉です。しかし、お茶席の掛け軸等にも用いられることで、世間でも非常に良く知られています。

 元来、中国唐時代の雲門宗の開祖である雲門文偃(うんもんぶんえん)禅師の言葉です。ある日、雲門禅師はお弟子たちに向かって「これまでの十五日以前のことはさておき、これからの十五日以後の心境を一言でのべなさい。」と尋ねました。だが誰もすぐに返答が出来なかったのです。そして、雲門禅師は自ら、「日日是好日」とお示しされました。

 この言葉を文字通りに解釈すれば「毎日が平安で無事なる日である」、「楽しく平安な毎日が続く」と言う意味ですが、単に「毎日がよい日である」というのでは禅的解釈にはなりません。

 多くの人は「来る日も来る日もよい日でありますように」と願い、無事を願っています。しかし現実は、その願いの通りにはいかず、毎日好き日が続くわけではありません。雨の日、風の日があるように様々な問題が起きます。

 しかし、どんな雨風があっても、日々に起きる好悪の出来事があっても、この一日は二度とない一日です。かけがえの無い一日であり、この一日を全身全霊で生きることができれば、まさに「日日是好日」となるのです。言い換えれば、常に今日という日をかけがえのない大切なものとして過ごすことが重要だというお示しです。

 横浜市出身の歴史小説家吉川英治氏の「晴れた日は晴れを愛し、雨の日は雨を愛す。楽しみあるところに楽しみ、楽しみなきところに楽しむ」の一言は「日日是好日」に近い意味だと言えましょう。

 雲門禅師は、「一日一日を正しく過ごすことによって、あらゆる時が好ましいものとなる」という時間認識のあり方を表現されたとも言えるでしょう。

 瑩山禅師は、さらに「人人悉く道器なり」と示されておられます。あらゆる人々はお釈迦様のみ教えを備えるに足りる器を持っている」という意味です。雲門禅師がお示しされた時間的な視点に、瑩山禅師が別の見方を加えられ、あらゆる人に悟りの種子(しゅうじ)があることをお示しになられたのです。

令和6年7月
本山国際室主事 ゲッペルト昭元師