今月のことのは

仏の言く
 篤信の檀那 之を得る時
 仏法 断絶せず
ほとけのいわく
 とくしんのだんな これをえるとき
 ぶっぽう だんぜつせず
本山開祖瑩山禅師『洞谷記』

もう何十年も前にアナログ人間かデジタル人間かの比較が流行っていた時代があります。アナログとデジタルの違いは、簡単に言うとコンピューターの力が介在するか否かによるものです。ただ人間の比較においては、古くからのやり方を踏襲し、物事の過程にこだわりを持ち、手間をかけていくタイプの人間をアナログ人間と呼び、新しいやり方をどんどん取り入れ、より早く手間をかけずに、物事を達成させていこうとする人間のことをデジタル人間と呼んでいるようです。

そんな比較が流行って以来、実際の社会ではすべての面においてデジタル化が急速に進んでまいりました。レコードはアナログディスクレコードからCDになり、カメラはフィルムカメラからデジタルカメラになり、わからない項目は、辞書からパソコンでの検索へと変わりました。今ではデジタルの中でもAI技術がどんどん進展し、部分的ではありますが、ニュースの原稿はAIが読み、将棋の先生もAI が務めるようになり、車の運転もAIが担うようになってきています。このままいくと、人間の行為は、感情以外すべてAIがまかなうようになるかもしれません。もしかしたら感情もAIが担ってくれている時代が来るのかもしれません。

確かに、デジタル化は世界中を大変便利にしてくれますし、個人の活動領域を大きく広げてくれます。ただ一方では、多くの人が「心が置き去りにされている」という漠然とした疎外感を感じ始めていることも事実です。

最近、フィルムカメラ、アナログディスクレコード、古い車のレストアが、密かなブームになっているとのことです。どれも今の時代としては、たいへん手間のかかることですが、共通して言えることは、課程においても結果においても、何ものにも代えがたい「味わい」を私たちの心が体験できるのです。

ここ近年、これまでの慣習が多くの場面で様変わりしています。その一つが葬儀です。十数年前は、親戚縁者はもちろんの事、生前親交のある方々みんなに沙汰をして、個人の人生の最後をお見送りしていただくのが主流でした。ところが今は、家族葬が主流になりつつあります。この傾向は三年間のコロナ禍によって加速化されているようにも感じます。

葬儀のおおきな意味は、故人のかけがいのない人生をみんなで分かち合っていただくことだと思います。より多くの人に分かち合っていただくことで、個人がこの世で生きた意味がより価値あるものになっていくのです。葬儀の合理化縮小化は時代の潮流として仕方のないことなのかもしれませんが、どこか「報恩の心」が薄くなってしまっている感を否めません。「報恩の心」とは故人を想い儀式や作法の一つ一つに込める心のことです。報恩の行いはアナログ的で手間はかかりますが、同時に私たちに「悦び」という尊い味わいをもたらしてくれます。

表題のお言葉は、瑩山禅師のお言葉で、意味は「信仰の篤い人を得ることができれば、仏法がすたれることはないと、お釈迦さまは言われた」と解釈したいと思います。禅師は、檀信徒の信仰の心を仏教伝道の上で最も大切なものとして位置付けておられました。信仰の心の源は檀信徒の「報恩の心」です。この心があるからこそ仏教儀礼が尊ばれ、仏教が守られてきたのです。

コロナ禍もやっと出口が見え始めてきました。出口の先では、これまでとは少し違った世界が広がってくるような気がしています。しかしどのような世界であっても、人びとの中には、まだまだ「報恩の心」がしっかりと根付いていることを願いたいものです。

令和5年1月
本山放光堂司 花和浩明老師